救いのお証し
私が教会に行くきっかけはクリスチャンだった娘の死でした。1991年5月23日天に召されました。四十九日の数日前、私は義兄に法要の後、遺骨をお寺に預ける旨の電話をしました。翌朝、夢を見ました。「お母さん、私を教会にいれて」という声で目が覚めました。私は娘の学校の校長先生に夢の話を伝えると、教会へ行くように言われましたので、行きました。牧師先生は法要を教会で行い、遺骨を預かって下さいました。これを機会に、私は教会に行くようになりました。説教は分かりませんでしたが、賛美は私の心を捉え、涙が溢れ心は癒され、慰められました。しばらくして遺品が返ってきました。その中に聖書が。手にとって開くと、丁寧に、きれいに赤鉛筆で引いていました。驚きでした。親に内緒にまでして受洗した娘の気持ち、イエス様を信じた心を思いました。聖書を読めば、娘の心を少しは理解出来るかも知れない。娘の心に少しでも近付きたい。そう願い聖書を毎日読むようになりました。
1992年3月始めて聖餐式に出席しました。厳粛な式の中で私は何かに触れられた感触を受けました。「しみも咎も汚れもなく」の賛美歌を聞いて、身震いするほどの強い衝撃を受け、涙が止まらなかった事を今もはっきりと覚えています。この夜の祈りの時、「十字架の言葉は滅びに至る人には愚かであっても、救いを受ける私たちには神の力である。」(Ⅰコリント1章18節)の言葉が心に来ました。「私は十字架を信じます」と告白しました。
そして1992年5月19日(日)ペンテコステの日に洗礼を受けました。救われた今、罪過の中、泥沼の中で喘いでいた私は罪を赦され、神の子どもとされ、永遠のいのちを頂き天国への道が開かれています幸いを思うと、心が踊ります。この喜び、希望は何ものにも変えられません。苦しみや試練の中を通りましたが、今は「苦しみに会ったことは私にとって幸せでした。」(詩篇119篇71節)と言えます。
O.H.