信仰という宝物
私は結婚を通して自分の中のとても嫌な部分と向き合わなければならなくなりました。それまでなんとか収め,なんとかコントロール出来ていたのですが、あるときから頑張って押さえつけても心の片隅から追い出せず,手に負えなくなってきたのです。報われない,果てしない主婦の仕事,自由な独身生活と違い,制限だらけの毎日,それに比べて主人は…と男女の違いへの不満…などが私を蝕んでいきました。自己憐憫と不満などを心から追い出せませんでした。それなのにやっぱり理想の心の状態を追い求め,自分を責めて,むなしく努力をしてました。そんな嫌な自分との戦いに加えて,かつてない不安も感じていました。子どもの存在です。初めて知った「愛しい」という感情に戸惑い,大切に思えば思うほど失う恐怖が増すように感じました。それまでの価値観や基準があてはまらなくなってしまいました。
そんな中,転機が訪れました。それはふらりと入った本屋さんでみつけた本です。三浦綾子さんの『新約聖書入門書』というタイトルでした。それまでも三浦綾子さんの主な小説は読んでいましたが,それに影響され購入した聖書は読んでいませんでした。なんだか気味が悪いというのと,宗教に関わることの漠然とした恐れからです。まず目に留まったのは『幸せの基準』でした。幸せの要因に金,地位,名誉などは勿論,趣味,仕事,愛する人,更には健康でさえも入らないと言うのです。これらは人の意思や行為や努力とは無関係に奪われるものだからというのがその理由でした。いつ奪われるかもしれないものに価値を置いている以上,心の平安はあり得ないと言うのです。ではなにを求めればいいのか…決して奪われないもの、生きている間はもちろん,死んだ後も,決して奪われないもの、自分でもう要らないと捨てない限りは持ち続けることのできるもの,それは信仰だと書いてありました。信仰…神様を愛する心。捨てない限り決して奪われない,消えない唯一のもの。私もそんな心が持てたらと素直にそう感じました。更に神様というお方は,自分はこんなに頑張っている,こんないいことをしてきたと自分を誇っているような人が嫌いで,自分はダメな人間だ。何も持っていない。どうか助けてくださいとすがって来る人間を憐れんで助けなさるのだと書いてありました。そしてこういう気持ちを持っている者は既に幸せなのだと言うのです。私は聖書というものに対し,すっかり思いを新たにし,続けて旧約聖書入門書を買い求めました。そこには人が罪人であるという歴史が描かれていました。人類初めての罪,嘘,殺人…今まで私は自分を本当はいい者なのに,自分の管理が悪くて良くならないと責めていたけれど,もともとがこんなに悪く,私の手に負えるものではなかったのだと知りました。そして,ただただ神様の前にお願いしますと差し出すだけでいいのだということが分かってきました。私はここまで知ってしまった以上,もう1人では生きていけない,この方と生きていきたい。いえ生きていこうと決心したのです。まだなにをどうしたらいいかも分からず,マタイ7章7節の『求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。』というお言葉を頼りに、とにかく求め,探し,たたいてみようと決心しました。救いという言葉も分からなかったのですが,後に徳田先生にそのときが私の救いであると教えて頂きました。1993年平成5年3月中旬の事でした。今までずっとひとりで頑張ってきた歩みに終止符を打ち、この素晴らしい宝を頂きました。
そして1年ほど経ったある日,電話帳で探して連絡をし,平成6年2月13日このような特別な集会で初めて教会にくることが許されました。神様の住所がやっとわかったような喜びを覚えました。集会に出席するうちに、説明が難しいのですが、この聖書の神様が私の既よく知っている、いつもそばにいてくださっていたお方であったことが分かりました。30年近くもお待たせしていた神様に早くお返事したく、洗礼を決意していた私は6月26日受洗の恵みに与りました。
信仰を与えられて感じているのは,本来あるべき状態に収まることができたという安堵感を得たという事です。人はどうしても放っておけば楽な方,自分に得な方に流れてしまう自分勝手な存在だということです。毎日聖書を読み,お祈りをし,集会に出席し,絶えず心を点検しなければならないほど危険なものを持っているという思いです。これは特別なことではなく,人として存在する以上はどうしても必要な,自然なことなんだと感じています。また,時代や流行に左右されない,誰の利害も加味されていない,この世の創造主が定めた基準が与えられているという納得,与えられているだけでなく,その道に歩むために知恵を与えてくださり,共に歩んでくださるという喜びなどがあります。
残念ながら成長は遅く,未だクリスチャンと名乗るには申し訳ない整えられていない者です。それでも,神様は私という人間をよくご存じであり、私なりの努力を認めてくださり(特にそれを必要としている者なので)許してくださっています。ただ自分がどれだけ神様の恵みと憐れみが必要な者であるかという理解はかなり進んだと言えます。
T. T.
『したがって,事は人間の願いや努力によるのではなく,あわれんでくださる神によるのです。』ローマ9:1